丹波市氷上町の史跡・伝説          本郷の舟座と尻引マント

本郷の舟座(加古川の舟運)   丹波市氷上町本郷
本郷川の尻引マント

稲継交差点から北へ県道7号「本郷口」を西に折れ、ゆめタウン氷上店を抜け西端の佐治川(現:加古川)堤防車道に出る付近までが本郷。佐治川の架かる本郷橋南側は稲継。此の本郷橋の北・成松方面からの
本郷舟座跡碑と 白山(赤井氏発祥地・荻野直正生誕地)

葛野川が流れ出る河口付近に本郷舟座跡碑が立つ。加古川舟運の開発は天正年間から文禄3年(1594)姫路城主木下家定の命をうけた秀吉一族の地頭:生駒玄蕃が東播磨の豊臣家領を管理していたが貢米輸送にあたり加古川に注目し財力のある大庄屋阿江与助等に滝野付近の通舟を妨げる川底の浚渫普請「加古川の舟運闘竜灘を参照」により浅瀬に水路を通させ慶長9年(1604)には姫路藩主池田輝政命により滝野以北の浚渫普請を西村氏等により田高までの
闘龍灘(加東市)の掘割(開削)水路

開削に成功した…が加古川舟運を滝野舟座・田高舟座から更に慶長11年(1606)には旧佐治川(加古川上流)の本郷までの通舟が可能となり此処に舟八艘の舟座が置かれた。柏原川が佐治川に合流する母坪・稲継付近には舟留があったが加古川から柏原川(金山城・鐘ヶ坂付近を水源)・高谷川(日本一低い中央分水界となる向山連山山系が水源:向山山塊には石生西河原城や滝山砦・四ノ山砦・浄福寺砦がある)への逆流(母坪付近浸水被害が発生していた)を防ぐ等…河川改修(約1kmの背割堤)により
舟座跡付近より下流の本郷橋・高見城山

消滅したが高砂までの約50kmが貫通していた。旧佐治川の水量が少なく・通舟期間は灌漑用水が不要となる秋の彼岸から翌年の八十八夜までの舟運を底の浅い高瀬舟により主に大名の年貢米・大豆・薪炭等を積出し、戻りは塩・干鰯・藍玉・灯油等を搬入したと云い本郷の地は但馬/丹後からの物資の集散地として賑わっていた…が明治32年(1899)阪鶴線(福知山線)開通により経済・文化交流の動脈として活躍した舟座300年の歴史は 鉄道・車輸送に引継がれ
舟座跡付近の中洲中才の淵? 上流左の山容は 弘浪山(高山寺城)

舟運は消えた。本郷舟座跡には御用米荷揚げ管理をしていた下級役人に関する川端柳の伝説があるが古柳も知る人もない?。 向山連山登山口近く:水分れ公園内の資料館を新装改修された「氷上回廊水分れフィールドミュージアム」には加古川水運にも関わる「氷上回廊」や物資輸送(主に年貢米?)に使用された高瀬舟が展示されている。徳川末期頃の事か明治初年にかけ「祟り」話や、 舟座跡には河童「本郷川の尻引きマント」の石像も立てられている。




本郷川の尻引マント  丹波市氷上町本郷

「日本むかしばなし」は全国各地に天狗・たぬきやキツネ・かっぱ…等々の動物・妖異な化身の話があり其の内容も妖・陽・恐・楽…と種々雑多。本郷の舟座跡には河童の石像が立てられている。本郷には主に年貢御用舟の舟座の建設に関する
背後の山容は弘浪山(高山寺城)

川端柳の伝承(徳川末期〜明治初年にかけ…古柳を切ると「祟り」の話も其の古柳も今は知る人もない?…が本郷川の尻引きマントが「丹波のむかしばなし」に蒐集されていた。”かっぱ”と云えば“遠野物語”等著者で民俗学者:柳田国男生誕地で 「妖怪」ヘの関心からか…福崎町辻川山公園には"さかさ天狗"や池から飛び出す河童像が人気。河太郎(ガタロ)とも呼ばれる?が此処:本郷では”マント”…!!と呼ばれる。
舟座跡付近より下流の本郷橋(最奥)・加古川本流の右端は高見城山方面

カッパは”尻引き…”と冠されるように”河童駒引”伝説にもあるように、川遊びの子や水を飲みにきた馬を川に引込んで「尻こ玉」?を抜いてしまうという!!。蔵ヶ淵や中才の淵の尻引マントも頭の皿に水がある間は陸上でも力強く ・水中に引入れ尻から腸を引抜く…!!と伝えられる。炎天下の中・此処のマント(河童)の皿には水が溜っていたョ
右に白山(赤井氏発祥地後谷城)・左端が蔵ヶ淵近く
 
かっぱ像説明の石柱には”旱天や河童の像に水注ぐ (芦翆)”とも…西方からは葛野川が佐治川(現:加古川)に合流し、南方から柏原川・東方からは高谷川が流れ出る新郷のR175号近く見田井堰付近迄は本郷川とも呼ばれていたが、現状は母坪付近浸水被害を防ぐ等の河川改修により
約1kmの背割堤によって隔てられている。
尻子玉を持つ河太郎(福崎町)

本郷舟座碑の下流:本郷橋を西に渡った丹波リサイクルセンター付近に”蔵ヶ淵”字名があり、中才の淵(旧本郷橋近く・舟座跡碑の中洲付近?)にも「尻引きマント(河童)」がいたと云い、子供の川遊びには生暖かい・どんよりした日はマントが元気なので気を付けろ、 とくに蔵ヶ淵は危ないので用心しな…という。


 別冊 別冊丹波霧の里HOME